外で犬を飼うのは虐待ではないのだろうか?
たとえば、スイスのような原産地の犬は寒さには強いが、暑さには弱いと聞いています。
昔は、番犬として犬を飼う家も少なからずあったと思いますので、あまり気にすることもありませんでした。
しかし最近ではペットブームということもあり、番犬というよりもペットとして飼われていることのほうが多い上に、海外原産の犬も増えています。
それぞれの特徴に合わせた飼い方が必要だと思うのです。
私の散歩コースでは、とある一軒家で「バーニーズマウンテンドッグ」が外飼いされているようです。
その犬は 私が通りかかると飛びかからんとするほどの勢いで迫ってきます。
私は犬が好きなので、この犬種についても温厚で人懐っこい性格であることは知っていましたが、かなりの大型犬なので目の前まで来るとやはり迫力があります。
もちろんリードで繋がれてはいるのですが判ってはいても後ずさりするほどでした。
犬は、尻尾の振り方で喜んでいるのか怒っているのかを判別できるらしいのですが、そこはなかなか飼い主でないと読み取れないと思います。
やはり近づかないほうが無難だと思い、構わないでいたのですが、最近その犬がおとなしいのです。
私に気づいていても大型の扇風機の前で目線だけこっちに向けて動こうとしません。
「私に少し慣れてきたのかな」と思う一方で、この暑さの中、外で飼われていることで元気がないのだとしたら「これも虐待かもしれない」思えてくるのです。
動物虐待は殴る・蹴るなどの暴力行為だけでなく、ネグレクトと呼ばれる虐待もあります。動物たちを多頭飼育することで飼育環境を悪化させたり、健康管理をせず病気のまま放置することです。
その他に、恐怖を与える心理的抑圧行為や動物たちを闘わせること、酷使させること、飼えなくなり動物を捨てる遺棄なども虐待行為になります。
しかしこの犬の場合、痩せているわけでもなく毛並みも悪くなさそうです。
日陰につながれていて、すぐ横には大型の扇風機も置かれています。また、比較的涼しい夕方の時間帯だけ外に出しているのかもしれません。
その家の事情もわからず、また、飼い主とは知り合いでもありませんので、いきなりインターホンを鳴らして「犬が暑そうだから家に入れてあげたらどうか」などと言えるはずはありません。
過去の虐待事例を見ても、「動物愛護センターや警察に即通報」ともいきません。
しばらく様子を見ながら飼い主にそれとなく話しかける機会をうかがい、この犬の話題に触れていこうと思います。
「少し過敏なのでは」と思われそうですが、それには少し理由があります。
去年、志村けんさんが亡くなった頃の週刊女性2020年6月9日号の記事の一部です。
「パンくんは志村さんを慕っていただろうけど……」前提としてそう話しつつも、番組に疑問を投げかけるのは、ヒトとチンパンジーの比較研究を専門とする大阪成蹊大学教育学部准教授の松阪崇久さん。
「パンくんが出演している8つのDVD作品を分析しました。そのうち2つは日本テレビの『天才!志村どうぶつ園』のおつかいコーナーの映像で、パンくんがブルドッグのジェームズと共にさまざまな“おつかい”を課されるというものです。
これらの映像作品を見て、パンくんの表情や発声といった感情表現について分析したところ、テレビ番組のためのロケや動物ショーへの出演が、パンくんにストレスを与えていることがわかりました。
「例を1つあげると、パンくんとジェームズが“おつかい”の途中で、川の橋のない部分を1メートルほど跳んで渡らなければいけないという場面です。パンくんはすぐに跳ぶことができず、上下の歯を合わせたまま前歯を露出させる表情を見せます。
これは“グリマス”と呼ばれる表情で、パンくんが川の流れに恐怖を感じていたことを示しています。
視聴者の多くは「がんばれ!がんばれ!」とテレビの前で応援していたかもしれないが、テレビの中のパンくんは恐怖に震えていた……。
この記事を読んで考えさせられたのと同時に、我が家でも犬を飼っていた当時のことを思い出したのです。
名前は「コロ」と言いました。
私が小学2年生頃だったと思います。下校途中、知り合いの家に寄り道したときに一匹の丸々とした子犬がいました。走る姿がコロコロと転がるようにみえて、どれだけ見ていても飽きません。
それが何日か続くものですから、その様子を見た家人がこんなことを言ったように思います。
「ほしいのなら、あげてもいいよ。お父さんとお母さんに聞いてきな」と。
そう言われたものですから、小さい私はすっかりその気になりました。
親には本当に一生懸命「お願い」したことを覚えています。「絶対に面倒を見るから」等と思いつく言葉の限りを尽くして。
そんな経緯で我が家で犬を飼うことになったのです。
当時、学校から戻るとすぐにコロを連れて、近くの公園に遊びに行くことが日課でした。友達と遊びに行くときも一緒のことが多かったのです。
コロは人懐っこい性格だったのでしょう、友達にもすぐなつきました。
しかし、遊ぶだけでなく世話をするとなると大変です。コロが成長するにつれ「面倒」だと思うときも多くなりました。最初4,5年くらいは、餌を上げたり、体を洗ってあげたり、頑張って世話をしていましが思春期に差し掛かると、部活や勉強で忙しくなり親にまかせることが多くなっていきました。
そんなある日、コロがいなくなりました。
当時はまだ私の家の周りに民家は少なく、周りは田んぼばかりでしたので日中は首輪から鎖を外していることも多かったのです。それでも、いつも夕方の餌の時間になると戻ってきていました。
人と遊ぶことが好きだったので、きっと誰かについて行ってしまったのでしょう。
心配で探しに行くのですが、なかなか見つかりません。
けれど、一週間ほど経った頃だったと思います。
半ばあきらめながら自転車で探していると、河川にかかる橋のむこう岸に一匹の犬がいました。
遠目でもみすぼらしく見えるので「野良犬かな」と思いつつ、ためしに「コロー!」と大きな声で叫ぶと、その犬は私を方を見るなり一目散に駆け寄ってくるのです。
近くまで来たときにようやくその犬が「コロ」だとわかりました。
コロは、私の足元まで来ると尻尾をぶんぶん振りながら私の足にしがみついてきました。
泥だらけになりながら、腹をすかしながら、我が家を探し続けていたのだと思います。
私は、そんなコロを愛おしく思いながらも、自己嫌悪していました。
コロがいなくなって三日経ち、五日経つうちに「このままいなくなってもいいかな」と思い始めていたのです。
そしていつもの日常に戻っていきます。
時が経ち、私は他の事に気を取られることが多くなり、コロと一緒にいる時間は少なくなっていくのです。
後ろめたさを感じながらも親にあまえていました。
やがてコロも歳をとり、力なく横たわることが続いたある夜のこと。
「コロが水を飲みたがってるから」と、父親がわざわざ私の部屋まで来て言いました。
いわれるままにコロの口元に水の入ったお椀を近づけると、それを一口飲み、静かに目を閉じました。
そしてそのまま動くことはありませんでした。
すべてではないにしても、動物には感情があります。
専門家ではなくてもペットの飼い主には「彼ら」を理解するための時間があります。
単に「好きだから」とか、「癒されたい」とかでペットを飼うのは、人間のエゴです。
ペットを飼う前には、いろいろな覚悟が必要ですし、飼ってからは家族になり彼らを理解する努力が必要です。
その努力を怠るのであれば、そもそも「飼う資格がないのでは」と思うのです。
先に紹介した記事のように、知らず知らずのうちに彼らを辛い目に合わせている場合や、周囲もそうと気づかずにいる場合もあります。
当時の私の場合でいえば、コロがいなくなったとき「もっと一緒に遊んでほしかった」だろうことや、最後の「水を飲みたかった」ことなども判らず、ただ自分の目の前のことだけに集中していました。
感情があるにもかかわらず、言葉が通じないことで無視していいはずはありません。
ペットを飼っているのなら、彼らに注意を払わず又無関心でいることは、目立つ行為ではないにしろ「虐待しているのでは」と思えてしまいます。
自治体の保健所や動物愛護センター等に引き取られた犬や猫の総数「年間約21万頭」。
飼い主の飼育放棄、迷子や遺棄、所有者がいないなどで保護・収容される犬や猫たち。
引き取られた犬や猫の約8割の約16万頭がやむをえず殺処分されています。
このコロナ禍では、ペットを飼う人が増えているそうですが、そういった件数も増えないことを願うばかりです。
ペットの飼育放棄に関するニュースも後を絶ちません。
表面化していないケースもあることでしょう。
法律で定める虐待の定義にとどまらず、知らず知らずのうちに虐待めいたことをしていることも考えられます。
ペットを飼うことも「財産的・人的要件を備えた【許可制】になれば」とつくづく思う今日この頃です。