2020年11月、渋谷区のバス停で野宿をしていた64歳の女性が頭を殴られ、搬送先の病院で亡くなった。(:渋谷ホームレス女性殺害事件)
傷害致死容疑で逮捕されたのは46歳の男性。
犯行の動機は、「邪魔だった。痛い目に遭わせれば、いなくなるだろう」ということであった。亡くなった女性の所持金はわずか8円。派遣労働者として、スーパーなどで試食販売の仕事に従事していたが、コロナの影響で仕事と収入を失う。
彼女がこのバス停に姿を見せるようになったのは、事件の年の春頃。
深夜、日用品の入ったスーツケースを引いて現れ、バス停のベンチに腰かけて休んでいるところは大勢の人が見ていた。
「人に気兼ねして、バスの運行時間を避けていたようです」と話す人もいるが声をかける人はほとんどいなかったようだ。
また、こう話す人もいる「声をかけたりしても、それでどうにかなるのかわからなかった」と。
そして事件当日もこのバス停で休んでいたところを、ペットボトルや石が入った袋で男に撲殺されてしまった。なぜ「助けてほしい」と言わなかったのか、なぜ生活保護を受けなかったのか。
番組の中で路上生活者を支援するNPOの代表はこう語る。
「特に女性は警戒感が強く繋がりを持つことは容易ではない。声をかけようとしても身構えてしまう。更に生活保護を申請した場合、親族に連絡がいくこともあり、多くの人がためらう理由となっている。「自分が悪いのだから」とか「家族に知られたくない」とかで路上生活に至る前に自分自身を孤独に追い込んでしまう」と。
「たどり着いたバス停で~ある女性ホームレスの死~」NHKのドキュメンタリ―番組より
現在、路上生活者たちは河川敷にブルーシートや段ボールで、仮の住まいを設けることも阻まれています。夏の暑さや冬の寒さをしのぐために、図書館などの公共施設が利用される場合もありますが、「悪臭を放ち不衛生だ」「持ち込む荷物が大量で、危険なものもあるかもしれない」といったことで、警戒され、迷惑行為とされていることが多いのです。
公園・地下街・歩道橋・高架下、どこも路上生活者を決して歓迎していません。安全性を理由として追い出したり、そこで一時の休息を取ることもできないように謎の仕切りを設けたりし続けています。
亡くなった女性が最後にたどり着いたバス停。そのベンチの座面の奥行きもわずか20センチあまりでした。
横になるどころか、長時間座って休むことができるサイズではありません。
人は、居場所を失うたびに少しずつ死に近づいていくように思います。
一つずつあきらめることが増え、絶望して最後には全てをあきらめてしまいます。
孤独感にさいなまれ、その上、体力も日々消耗していく中では生きる気力も失われることでしょう。ましてやまともな思考などできはしません。
路上生活者たちには雨宿りできる場所が必要なのです。
亡くなった女性のわずかな所持品の中には契約の切れたスマートフォンがありました。
その中の記録には、試食販売の仕事をする自分の写真と一緒に母親と弟の連絡先が書かれたメモだけが残っていました。
彼女は、自分の死がすぐ側にある事を感じていたのだと思います。
間接的にせよ、行政や機関の管理者によって街のあらゆる場所から路上生活者たちを締め出す行為は、「彼らが目の前からいなくなればよし」という考えだけが基になっているのでしょうか。
だとすれば、事件の加害者の動機とそう変わらないように思えます。
生活保護などの公的制度はあるものの、彼らそれぞれの身上や心情によって、申請することをあきらめることもあるようです。
住むところが無くなる前に、また無くなった時、安心して生活保護制度が利用できるとは限らない今の制度は見直しが必要です。
彼らにも街に住み続ける権利はあるはずです
住民感情にこたえる形で、施策として公共の場所から路上生活者を遠ざけるにせよ、それを補う案があって然るべきです。
「問題の種が目の前からなくなればよし」だけではなく、「他方に対する思いやり」もなければなりません。
例えば、言語障害を持つ子供がプールで溺れそうなとき、遠くにいる監視員はそのことにいち早く気づく事ができるのでしょうか。
近づかなければ遊んでいるのか溺れているのか判別できないのではないでしょうか。
側に人がいるとしても背をむけた状態で他に意識を向けていると、近くにいる子供が溺れていると分からないときも多いと思います。
実際には、そういう場合、子供の親や保護者が目を離さないでいることでしょうが。
社会の中においては、人に「助けてほしい」と言えない孤独な状態があるのです。
その身の上や心情を理解せずに、彼らから助けを求めるのを待っている制度等では補うことはできないでしょう。
番組の中で、路上生活の経験者は語っています。「目の前の道行く人たちがいる世界に今自分はいないんだ。別世界にいるのだという感覚だった」と。
路上生活者と私たちの間には、大きな見えない隔たりがあり、どちらかが歩み寄らなければ、お互いの世界に行けないのだとしたら、私たちのほうから手を差し伸べるべきなのでしょう。
しかし、直接私がそうできるのかといわれれば、やはりできそうにもありません。
私自身、それほど清廉潔白なわけでもなく、強い人間でもありません。
せめて、隣人に対する「思いやり」や「寛容さ」を忘れずにいることで、自分に出来ることが見つかれば、「私」あるいは「私の行為」が彼らの「雨宿りができる場所」になり得るのだと思います。